きっしいのパタゴニア旅

(1997年12月21日〜1998年1月4日)




出発前「パタゴニアって、どこ?」

 私が、パタゴニアに行きたくなったきっかけは、4、5年前に読んだ椎名誠さんの旅行記でした。「地球の裏側で、強風が吹いていて、氷河が崩れ落ちていて、タンポポが咲いていて、羊がいっぱいいる」 。うーむ、行ってみたいと思ったのです。特に心を惹かれたのは「地球の裏側」。ということは、そこに住んでいる人は落ちないように地面に両手でぶら下がっているのか、それとも逆立ちして歩いているのか?それを自分の目で確かめてみたくなったのです。
 しかしそこは会社勤めの辛さ、観光シーズンは12月1月のみ(それ以外は寒くて行けないのです)、日程は2週間以上(地球の裏側からさらに先ですから)というハードルに阻まれなかなか行けずにいました。が、昨年末はラッキーなカレンダーで、4日間の有休を取るだけで15日間のツアーに参加することが出来たのです。
 「強風」の話として本に載っていたのは、「パタゴニアで、飛行機に乗って離陸したんです。で、しばらく経って窓の外を見ると、まだ下に滑走路が見えているんですよ。いや、これにはびっくりしました。飛行機が前に進まないほど風が強いんですよ」、いいですねこの話。「この飛行機は、いったい何時になったら目的地に着くんだ?」というツッコミも聞こえますが、まあまあ、そこがパタゴニアなのです。
 ということで、きっしい夫妻は、12月21日(日)の朝10時にNEXで成田空港に到着したのです。


1日目「パタゴニアツアーのメンバーは濃い」

パタゴニア地図12月21日(日) 曇り 12℃
 ワールド航空サービス「パタゴニア大自然とアンデス越え15日間」のメンバー18名は、まず専用待合室に集合した。専用の待合室があるとは、やるなワールド航空。ツアーの説明の後に、各自の自己紹介となるのだが、これが濃いのだ。「私は、世界70カ国以上行きました」と60代のおじさん。「今年は、南極と北極に行きました」と70代のおばあちゃん。「1、2、3‥‥」と指折り数えてみたが、ウチはわずか8カ国、このメンバーの中ではビリかも。
 メンバーの中に見たことがある顔を発見、「あっ、おとどしペルーにいっしょにいった女の子」と偶然の再会。まあ同じような好みの人は、同じところを目指すものなのです。大半が50代以上の旅なれた方々である。で、「パスポートをスーツケースの中に入れたまま」の人も、「第一と第二ターミナルを間違えた」人も、当然いないのである。
 午後1時に、1時間遅れのJAL006便でニューヨークに飛び立った、飛行時間12時間15分、途中1回夜がある。ニューヨークのホテルで休憩の後、夜7時のアルゼンチン航空1301便でブエノスアイレスに飛び立った、飛行時間11時間25分、1回夜がある。朝7時半に着陸した、ブエノスアイレスは雨、気温は15℃と夏なのに寒いのだ。成田から30時間半の空の旅。長いといえば長いが、地球の反対側まで来たと思えば早いものだ。

旅行行程図(ワールド航空サービス社パンフレットより)


2日目「なんでもエルニーニョ現象」

12月22日(月) 雨のち曇り 18℃
 観光バスで、「カミニード」とか「5月広場」とかを見てまわる。よくある西洋の都市のように、緑の芝生がいっぱいあって、建物が整然と並んでいてきれいな都市である。「エルニーニョの影響で、ブエノスアイレスは寒くて一日おきに雨がふります」とガイドさん。その後も、いろんな処で「エルニーニョの影響で、例年の夏より暑い」とか「エルニーニョの影響で、雨が多くて牧草が緑色をしている」とか「エルニーニョの影響で、今年はオラがサッカークラブは優勝できなかった」とかの話を聞く。日本も南米もなにかにつけエルニーニョなのである。
 話はかわるが、私は「名前の由来」に大変興味がある。日本でもちょっと変わったラーメン屋の名前に出会うと、「このお店の名前どういう所以があるのですか?」とオヤジに質問してしまう。では南米版を、「アルゼンチン」は「銀の国」、昔は銀がいっぱい取れたそうで、今でも銀製品がおみあげ品になっている。「ブエノスアイレス」は「美しい空気」、昔はそうだったのかもしれないが、今は排気ガス臭い。
 ブエノスアイレスは、「南米のパリ」と呼ばれている。日本人が名づけたわけではない。向こうの人がそう呼んでいるそうだ。なるほどこれが「南米のパリ」かと見回したが、パリに行ったことが私にはよく分からなかった。今夜の宿は「マリオット・プラザ」という歴史と格式のホテル。「アルゼンチンのオークラ」というところか。でも、バスタブの栓が壊れて、お湯が抜けなくなってしまった。妻が言う「歴史なんかなくてもいいから、設備の新しいホテルがいいわね」


3日目「ブラッドピットの泊ったホテル」

12月23日(火) 晴れ 25℃
 3日目、朝7時半すぎの国内線で、内陸の「メンドーサMendoza」へ飛ぶ。飛行機の窓からは、2時間ずっと、緑豊かな畑が地平線まで続く。これが、中学校の時地理で習った「パンパ」の本物だ。アルゼンチンは食料自給率92%、他の国から「もう、アルゼンチン君とは遊んでやらないもんね」といわれても、「いいもーん、自分ところで食べていけるもーん」と大丈夫なわけだ。日本はというと、「もう、ジャパン君とは遊んでやらないもんね」といわれたら、「ごめんね、ごめんね、パンも食べたいし、エビも食べたいよ」と答えるのかと考えているうちに、遠くに白い頂きのアンデスの山々が見え始める。
 降り立ったメンドーサ空港は、「暑くて日差しがギラギラ」であった。ゴアテックスの上着を脱ぎ、トレーナーも脱ぎ、半袖ポロシャツすがたになる。メンドーサはアルゼンチン一番のワイン処。「アルゼンチンの甲府」と名づける。あたり一面のブドウ畑である。「アルゼンチンは世界4位のワイン生産国です」とガイドさんが語る。
 教会跡、公園を見学し、お昼を食べる。とにかく日差しが強い、が日陰だと風が心地よい。バスの窓から、日陰で昼寝している人達が大勢見える。ここでは、昼寝は必要である。「朝夕は人間が働き、昼間は太陽が働く」豊かな処である。
 午後は、「ボデガBodega」と呼ばれるワイナリーの見学。でも機械化されていてつまらなかった。夕方、バスで「ウスパラータ」まで2時間移動。「ヴァレ・アンディオ・ホテル」に泊る。「去年のツアーでは、”ブラッド・ピット”が映画のロケで泊っていたのでここに泊れなかったんですよ」と添乗員さんが言う。「”セブンイヤー・イン・チベット”はこんな処で撮影していたのか!日本に帰ったら見にいかねば」。ポプラ並木(木が北大のポプラ並木の2倍はある)に囲まれた、芝生の裏庭の広ーい山小屋風ロッジだ。
 明日は、バスでのアンデス越えだ。


4日目「見えたぞアコンカグア」

12月24日(水) 曇り 25℃
 4日目、朝10時にバスで出発。客の中に不満が広がっている「今日は山越えだと。いつになったらパタゴニアに着くんだ!」「私はお酒が駄目なのに、なんでボデガの見学をしなくていけないのよ!」が、その不満も、1時間半後、「アコンカグア山」を見ることにより、半分解消。アコンカグアは、標高6965m、南米最高峰の山である。「最高峰ならどこからだって見えるのでは」と思うのだが、まる1日のアンデス越えの中で、この一個所からしか見えないのである。さらに天候が良くないと見えない。山と山との隙間から見える、アコンカグアは氷河を抱え、「南米最高峰」と威張るだけある立派な山であった。
  昼飯を食べた「プエンテ・デル・インカ」(インカの橋)で、温泉娘は一人水着に着替え、温泉に入りに行く。この方は、「海外旅行大好き」なのだが、「お酒駄目、コーヒー駄目、食べ物もあれも嫌いこれも嫌い」でスーツケースの中は日本食いっぱいの方なのだ。3000mの峠を越え、アルゼンチンの出国、「チリChile」の入国の後は、「チリのいろは坂」と呼ばれるようなつづら折の下り。対向車のトラックは、警笛を鳴らし、うれしそうに手を振ってくれる、「あったかい」気持ちになる。
 「サンチアゴSantiago」到着は、夕方6時半。ホテルは大統領官邸の斜め前の「ホテル・カレラ」。「サンチアゴのパレスサイドホテル」と名づける。大統領官邸の前の公園に犬が何匹もいる。警備兵といっしょに動いている犬もいたので、始めは警察犬かと思ったが違うみたい。早速「チリのワンコとの友好を深め」に行く。でも、黒い犬にジーパンの上からお尻を噛まれた、他の犬は友好的だったのに、後ずさりして逃げる。傷はなくて良かった。
 ここで、メンドーサからのガイド「ディーニョ」さんとお別れ。お別れに「富士山」の絵葉書を上げたら、「イッツフジヤマ」とか知っていた。日本のビデオとかで憶えたそうだ(スペイン語に比べてだけど、なんて英語だと会話できるのだろうか)お返しに、ディーニョさんの描いた水彩画をもらった、「グラーシアスGracias」。
 明日は、やっとプンタアレーナスに飛ぶ。
*日本に帰ってからチリ大使館に「チリChili」の意味を聞いたら、「アイマラ語の都市の終わる処という意味です」と教えてくれた。


5日目「地の果てプンタアレーナス」

12月25日(木) 晴れときどき曇り 12℃
 5日目、朝8時発、VC071便でプンタアレーナスに出発。チリの人達は、外見が日本人に似ている。髪の毛が黒い、目も黒い、背丈も同じぐらい。いかにもヨーロッパ人という感じのアルゼンチンの人達とは、大きな違いがある。こんな遠く離れたところで、似たような外見の人達に出会うと、思わず「オラ、アミーゴHola,Amigo」(やあ、友達)という思いになる。飛行機で、関西弁の女の子5人グループと乗り合わせる。チエロ島に行くそうだ。「チエロ島は、きれいで魚介類が美味しくて、女の子に人気なのよ」と妻。ふーん、まだまだ知らないところがいっぱいあるなと思う。
 途中のプエルトモンで女の子達は降りる。プンタアレーナスまではトータル4時間。
 到着した「プンタアレーナスPunta Arenas」は気温8℃、でも風は思ったほど強くはない。花が満開である、黄色い花、白い花、赤い花。なかでも道端にタンポポがいっぱい咲いている。こんな処にもタンポポが咲くんですね。
 海の側のレストランでお昼。波穏やかなマゼラン海峡の向こうにフエゴ島が見える。1520年に”マゼラン”がマゼラン海峡に到達。その後、大西洋と太平洋をつなぐ海峡として栄えるが、1914年のパナマ運河開通とともに静かな海峡に戻る。と歴史をかみしめながら見ると凄い景色だが、「北海道みたい」と言われれば、「なるほど」と思う景色である。それにしても風がなくて穏やかだな。嬉しいのか哀しいのか。
 レストランの3匹の小犬(小さな犬の意味)がカワイイのだ。白いのと黒いのと茶色いの、ガラス窓の外から「もらえないかなあ」と中を覗いている。その後3匹は、大勢の人達からパンをもらうこととなる。
 ホテルは、マゼラン像のあるアルマス広場の真ん前の「カーボ・デ・オルノス」。ここもいいホテルで気に入る。
 夕方5時半、散歩の途中で、移動遊園地を見つけた。TVの旅番組とかでは見たことがあるが、本物は初めて。楽しそうな音楽と、子供たちの笑い声におもわず引き込まれる。ベンチのついた観覧車のようなのに乗った。一番上からは、目の前にマゼラン海峡が見える、組み立て式で壊れそうなのでスリルがある。親子連れがいっぱいいる、日本の遊園地と変わらない光景である。
 夜8時から夕食、ホテルに帰ってきたのが10時。まだまだ太陽は空にある。日が沈むのは夜の11時である。


 6日目「草むらにいるペンギン親子」

ペンギン12月26日(金) 晴れときどき曇り 10℃
 6日目、朝8時半バスで出発。強風と寒さのために、下草がちょぼちょぼと生えただけの平原をどんどん走る。バスの窓から「グアナコ」発見。アルパカとかリャマの仲間で南米にしかいない。(日本の動物園では、なかなかいないので説明しづらい)「ニャンドウ」発見。小型のダチョウ、でもダチョウとは違うそうだ、南米にしかいない。スカンク発見。
 10時、オツウェイ湖(海とつながっている)のほとりのペンギンコロニーに到着。「ペンギンといえば、流氷の上にのっている」と思ったのに、ここのマゼランペンギンは、草むらに穴を掘って暮らしているのです。穴の中にはムクムクの赤ちゃんペンギンもいます。50cmぐらいまで近づけます。でも触るのは禁止。遊歩道の行き止まりは、湖縁。何十匹ものペンギンが岸に立っていました。いつまでも見ていたいのですが、ここは寒い。飛んでしまいそうな冷たい強風がビュービュー。これぞ本物のパタゴニアの風、手袋、耳当てつき帽子が必要です。
 午後2時半。今日のお昼は「エスタンシアEstancia」(大農場)で羊丸焼き。羊を丸ごと魚のように開きにして、火で焼きます。焼けたらナイフで細かく切って、さらに網で焼いて、アブラ分を落とします。20人だと羊1頭半ぐらい食べますかね。他にサラダとかパンとかソーセージとかも食べます。この羊が旨いのです。臭みがまったくなく、油が適度に抜けていて。「ムーチョ、サブロッソMucho、Sabroso.」(とても美味いよ)と髭面の調理人のおじさんに言うと、「そうかそうか、もっと食え」と嬉しそうに言うのでした。
 ここの犬もかわいかった。手を叩くと、牧草地の彼方から尻尾をブルンブルンと振りながら、一目散に走ってくるのです。バスは、枯草色と緑色の平原の中をドンドン走る。道路端には、延々とタンポポの黄色い花が咲き続けている。
 夕方6時、「プエルトナタレスPuertoNatares」到着。湾に面した、人口2万人弱の町、湾の向こうには、氷を被った山々が見える。ホテルは湾に面した「コスタストラリス」、ここに3泊、ここも快適なホテルだ。


後半へ続く